最終更新:
sasamisweets 2023年07月05日(水) 17:50:07履歴
条約名 アジス・アベバ基本条約 | |
|---|---|
![]() | |
| 署名 | 二千二十三年一月一日 |
| 署名場所 | アジス・アベバ基本条約 |
| 効力発生 | 二千二十三年一月一日 |
| 締結国 | 二か国 |
| 主な内容 | 二か国間の基本条約 |
エチオピア帝国は新大陸に巨大な国土を持つスタルクバーン連邦に古くから興味を抱いていた。スタルクバーン連邦はメキシコとカナダからなる連邦国家でありつつ、精強な軍隊を保持する工業国家である。エチオピア帝国はその歴史を遡るとアラビア半島部のアラビア帝国とアフリカ大陸部のエチオピア帝国の二つに分かれていた時期がある。このことからスタルクバーン連邦はエチオピア帝国とどこか似通った歴史を保有していた国であった。エチオピア帝国とスタルクバーン連邦の友好関係は16世紀にまで遡る。1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に「再到達」しスタルクバーン連邦と旧大陸諸国との交流が始まると、エチオピア帝国も新大陸に興味を示した。エチオピア帝国は新大陸の勢力を対イスラーム、そして対ヨーロッパ諸国への備えとしようとした。1512年、エチオピア帝国はスペイン帝国の先導でスタルクバーン連邦に使者を送り、時の皇帝アムダ・セヨン1世の親書を送った。スタルクバーン連邦の大統領ネルソン・レオニダスから返答を受けるとエチオピア帝国は地中海航路を用いた公的貿易を行った。まだヨーロッパ=スタルクバーン連邦の航路が安定していなかったためその道のりは試練の連続であった。
第一回貿易は1530年に行われた。大量の金と香辛料を乗せた5隻のガレオン船からなる貿易船団はスペイン船の先導で大西洋航路に乗り出したが、セントルシア沖で漂流し、現在のブラジル、セアラー州に漂着した。エチオピア帝国船団は積み荷の半分を売り渡してセアラー州に港を築き、交易の拠点とした。しかし現地の風土病(黄熱病とみられる)に感染した船員たちが体調不良を訴え、船団はヨーロッパに舵をとり出立した。先導するスペイン船とともにヨーロッパを目指す船団であったが、不幸にも嵐に見舞われ再び遭難した。スペイン船は四日に渡る嵐により大破し、エチオピア帝国船団も旗艦ニジンを含め5隻中3隻が大破した。残ったエチオピア帝国船団は副旗艦タファリを先頭に西へ舵を取り進み続けたが、漂着したのは現在のガーナ、セコタンディ・タコラディ近郊であった。船団は黄金を路銀に替え再び船を出そうとしたが、黄金の産地であった当時のガーナ王国では黄金も同じ重量の塩と同じだけの価値しか持たず、路銀とするには到底足りなかった。船長ニジン・シランディは船をすべて売り払い、ガーナの隊商と行動を共にし2年かけてエチオピア帝国に帰還した。このニジン・シランディの行動は帰国後大いに問題視されるところとなったが、アムダ・セヨン1世はこの行動を大いなる勇気と決断力に満ちた行動だと称賛し、オボック子爵領を下賜した。その後ニジン・シランディ子爵はエチオピア帝国宰相にまでなったが、アムダ・セヨン1世の没後権力闘争の中で暗殺された。
第二回貿易は1545年、アムダ・セヨン1世の後継ネワヤ・クレストスが即位した年に行われた。当時はまだネワヤ・クレストスの権力が定まっておらず、諸侯が宰相位をめぐって相争っていた。そのため皇帝の威厳を示す意があったといわれている。第二回船団は第一回よりも大規模で、7隻の船団に黄金や馬などを載せて出立した。このころ既に新大陸に馬がいないという情報は伝わっていた。エチオピア帝国船団は紅海から地中海に出てアレクサンドリア、トリポリ、チュニス、アルジェと進んだ後カディスでスペイン船と合流した。第一回と同じくスペイン船を先導としたが、第一回の反省を生かして北方航路を通って地図上で直線に進んだ。しかし旗艦タイタニックは現在のスタルクバーン連邦、カナダ、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し沈没した。タイタニックはギリシャの伝説の巨人タイタンから名前をとり、当時の最新技術を駆使して建造された世界最大の商用木造船舶であったといわれている。タイタニックは全長180フィート(55メートル)を超え、1000トン級であったといわれている。乗員は600人を超えていたが、この沈没船から生き残ったのは50名ほどに過ぎなかった。エチオピア帝国船団は副旗艦カルパチアを先頭としてニューファンドランド島に寄港した。エチオピア帝国船団は2日の休養ののち再び出港し、首都特別区へと向かった。スペイン船と漁港メリダで別れると、一行は首都特別区へと向かった。これはスタルクバーン連邦と貿易をした初めてのエチオピア籍船舶である。エチオピア帝国船団はスタルクバーン連邦から様々な鉱石や珍しい動植物を手に入れ、再びメリダから出港した。エチオピア帝国船団は帰路にニューファンドランド島に寄港しタイタニック号の死者の冥福を祈った。エチオピア帝国船団はその後特に災難に襲われることなくエチオピア帝国に帰国した。ネワヤ・クレストスはエチオピア帝国船団の帰還を大いに喜び、その功績を称え副船長サイエ・ソラティエを三等宮廷貴族(子爵位相当)とした。サイエ・ソラティエはその後よくネワヤ・クレストスを支え宰相にまで上り詰めた。
第一回返礼貿易は1551年に行われた。スタルクバーン連邦は第二回貿易の返礼として新大陸特産の動植物系70種をエチオピア帝国へともたらした。ネワヤ・クレストスはこの返礼を大いに喜びスタルクバーン連邦との永遠の友情を約束した。ネワヤ・クレストスは金が新大陸や西アフリカで産出されやすいという情報を得ていたため、金の代わりに鉄鋼などやコーヒー豆などの特産品を持たせて使者を返した。
第三回貿易は1582年、ネワヤ・クレストスの後継ネワヤ・マリアムが即位した年に行われた。前二回の貿易により国内では帰還した船長は宰相に列せられるという噂が盛んであり、貴族・平民問わず推薦や応募に枚挙にいとまがなかったという。第三回エチオピア帝国船団船長に任命されたアストレアスは元海賊であった。大海賊ダヴィデの息子として生まれ、海賊として名を馳せたがエチオピア帝国水軍発足に伴い足を洗い、エチオピア帝国水軍の一部隊を担っていた。アストレアスはエチオピアの様々な特産品とかつての仲間を集め従来の地中海航路ではなく、喜望峰航路を通ってスタルクバーン連邦へ向かった。一行は困難に襲われることなく喜望峰を通過し、現在のブラジル、セアラー州にたどり着いた。アストレアスはセアラー州にかつて漂着した第一回貿易船団が拠点を築いていたことを知っていたといわれている。アストレアスはその拠点を利用しようとした。しかしエチオピア帝国船団が休養を取っていると現地人の一派に寝込みを襲われ、這う這うの体で船に逃げ出した。エチオピア帝国船団は即座に出港し、南アメリカ大陸に寄港しつつスタルクバーン連邦に向かった。アストレアスは無事に首都特別区での交易を終えると漁港カンクンからスタルクバーン連邦を後にした。しかしフロリダ沖でスペインの私掠船に襲われ、戦闘になった。アストレアスとその一派はよく戦い、スペインの私掠船を撃滅した。ガレオン船2隻を拿捕したが、船団は戦闘中の出火により一隻を失った。エチオピア帝国船団はジブラルタルを通ることを恐れ、喜望峰へと舵を切った。エチオピア帝国船団はマリ王国に寄港し、そこで再び交易を行った後、喜望峰に辿り着いた。しかし喜望峰で嵐に遭い足止めを食らった。この時アストレアスが同じく足止めを食らっていたポルトガルの商船の船長であり王族のパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスと誼を通じた。アストレアスはパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスと互いに冒険譚を語り合い、それを記述させた。帰国後、エチオピア帝国内で出版し、現在まで読み継がれる名著として知られている。エチオピア帝国船団は嵐が収まるとパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスの一行とともにソマリア半島付近までともに行動し、そこで帰国した。ネワヤ・マリアムはアストレアスの無事を心から喜びアストレアスをエチオピア帝国水軍の元帥とするとともに、二等宮廷貴族(伯爵位相当)とした。アストレアスはその後5年で水軍を引退し、宰相へと上り詰めた。
スタルクバーン連邦には第二回返礼は1588年に行われたとの記述があるが、遭難し、現在のモロッコに漂着した。スペインの商船によって保護された返礼船団は地中海航路を通ってエチオピア帝国へと到達し、歓待を受けた。スペインの商船は礼としてエチオピア帝国内での特別許可貿易(帝国が民間貿易制限品目に指定している品目を規定量の2倍まで輸出できる)を許された。
第四回貿易は1652年、ネワヤ・マリアムの後継ダウィト1世の後継テオドロス1世の即位に際して行われた。ダウィト1世はその航海の危険性と船長が宰相になるという風習の打破のために貿易自体を行わなかった。しかしダウィト1世の治世は帝国内で反乱がおき穏やかとはいかなかったことからテオドロス1世は貿易の再開を決意した。第四回エチオピア帝国船団は第三回と同じく喜望峰航路を用いてスタルクバーン連邦を目指した。この回の船団は大規模で、10隻のエチオピア帝国水軍と5隻の貿易船からなっていた。各貿易拠点の建築及び制圧を副目標として定められていた。エチオピア帝国船団は喜望峰で補給を行うと現在のアクラ近郊に寄港した。エチオピア帝国船団は貿易拠点をここに建築し、補給を行うと現在のブラジル、セアラー州に向かった。セアラー州で現地人を威嚇しつつかつての貿易拠点を接収し、補給を行うとエチオピア帝国水軍3隻を残して出港した。その後も大陸沿いに進みながら首都特別区で交易を済ませた一行は往路を辿りつつ帰国した。第四回エチオピア帝国船団の最大の功績は、西アフリカ・新大陸に貿易の拠点を抑えたことである。エチオピア帝国船団はエチオピア帝国水軍1隻、エチオピア帝国船団2隻をアクラ近郊の貿易拠点に残し喜望峰航路を使い帰国した。残った三隻は新大陸と西アフリカで積極的に情報収集及び交易を行い、12年後に帰国した。この時の記録は歴史家セイレイニ・ウリヌによって記録されている。曰く、西アフリカ人は誠実で丁寧だが欲深く、常に自らの利益になるように動いている。金と塩が同じだけの価値を持ち、道は金粉でおおわれている。内地には至る所に金鉱山がある場所があり、そこではすべての建物が金でできていて王は金の玉座に座っているという。また、南アメリカ大陸の現地人は勤勉で知恵に富んでいるが恩と時間を忘れやすい。密林の中に野蛮な民族がすんでおり、大人から子供まで男も女も迷い込んだ冒険者の首を音もなく狩っては枝にさして威嚇する天性のハンターだという。彼らは樹上生活を営んでおり、木の板でできた仮面に模様を描いて暮らしているという。赤い線の数が多いほど部族の中での階級が高く、青い線の数が多いほど人の首を狩っているという。第四回エチオピア帝国船団船長テオドリックはエチオピア帝国水軍元帥となったが、宰相にはならなかった。
第三回返礼貿易はアクラのエチオピア帝国拠点に寄港し、希望峰航路を通ってエチオピア帝国に到達した。テオドロス1世は返礼船団の冒険譚と大西洋交易拠点の様子に多大な興味を持ち、返礼貿易船団は艦隊を受けて帰国した。
第五回貿易は1682年、テオドロス1世の治世に再び行われた。テオドリック元帥の指揮下で再び各拠点への遠征が行われ、その後5隻の貿易船により喜望峰航路を通って行われた。
その後もエチオピア帝国とスタルクバーン連邦との間で公的貿易は続けられた。
最後の貿易は1782年に行われた第九回貿易である。地中海情勢の悪化と喜望峰航路の難しさからそれまでも何度も廃止論が出されてきたが、貿易の成果により廃止されなかった。しかし、国内情勢の不安定化と新大陸とヨーロッパ諸国の貿易の活発化から貿易の頻度は次第に衰退し、ついに貿易は廃止されることとなった。エチオピア帝国とスタルクバーン連邦との貿易はこれで途絶えていたわけだが、しかしその親交は依然として続いていた。多くのエチオピア商人やポルトガル商人が新大陸とエチオピア帝国をつなげ、多数の特産品をもたらした。
二千二十二年十二月にスタルクバーン連邦の外交使節団がアジス・アベバを訪れ、従来の両国の友好関係と今後の両国の発展を願い、本条約を締結するに至った。
また、本条約を締結した後であるが、外交使節団からエチオピア帝国の教育システムに対して意見があり、メンギスツ・ハイレ・マリアム宰相はスタルクバーン連邦や様々な団体の専門的な意見を聞きながらそれを改善する意欲を示した。
第一回貿易は1530年に行われた。大量の金と香辛料を乗せた5隻のガレオン船からなる貿易船団はスペイン船の先導で大西洋航路に乗り出したが、セントルシア沖で漂流し、現在のブラジル、セアラー州に漂着した。エチオピア帝国船団は積み荷の半分を売り渡してセアラー州に港を築き、交易の拠点とした。しかし現地の風土病(黄熱病とみられる)に感染した船員たちが体調不良を訴え、船団はヨーロッパに舵をとり出立した。先導するスペイン船とともにヨーロッパを目指す船団であったが、不幸にも嵐に見舞われ再び遭難した。スペイン船は四日に渡る嵐により大破し、エチオピア帝国船団も旗艦ニジンを含め5隻中3隻が大破した。残ったエチオピア帝国船団は副旗艦タファリを先頭に西へ舵を取り進み続けたが、漂着したのは現在のガーナ、セコタンディ・タコラディ近郊であった。船団は黄金を路銀に替え再び船を出そうとしたが、黄金の産地であった当時のガーナ王国では黄金も同じ重量の塩と同じだけの価値しか持たず、路銀とするには到底足りなかった。船長ニジン・シランディは船をすべて売り払い、ガーナの隊商と行動を共にし2年かけてエチオピア帝国に帰還した。このニジン・シランディの行動は帰国後大いに問題視されるところとなったが、アムダ・セヨン1世はこの行動を大いなる勇気と決断力に満ちた行動だと称賛し、オボック子爵領を下賜した。その後ニジン・シランディ子爵はエチオピア帝国宰相にまでなったが、アムダ・セヨン1世の没後権力闘争の中で暗殺された。
第二回貿易は1545年、アムダ・セヨン1世の後継ネワヤ・クレストスが即位した年に行われた。当時はまだネワヤ・クレストスの権力が定まっておらず、諸侯が宰相位をめぐって相争っていた。そのため皇帝の威厳を示す意があったといわれている。第二回船団は第一回よりも大規模で、7隻の船団に黄金や馬などを載せて出立した。このころ既に新大陸に馬がいないという情報は伝わっていた。エチオピア帝国船団は紅海から地中海に出てアレクサンドリア、トリポリ、チュニス、アルジェと進んだ後カディスでスペイン船と合流した。第一回と同じくスペイン船を先導としたが、第一回の反省を生かして北方航路を通って地図上で直線に進んだ。しかし旗艦タイタニックは現在のスタルクバーン連邦、カナダ、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し沈没した。タイタニックはギリシャの伝説の巨人タイタンから名前をとり、当時の最新技術を駆使して建造された世界最大の商用木造船舶であったといわれている。タイタニックは全長180フィート(55メートル)を超え、1000トン級であったといわれている。乗員は600人を超えていたが、この沈没船から生き残ったのは50名ほどに過ぎなかった。エチオピア帝国船団は副旗艦カルパチアを先頭としてニューファンドランド島に寄港した。エチオピア帝国船団は2日の休養ののち再び出港し、首都特別区へと向かった。スペイン船と漁港メリダで別れると、一行は首都特別区へと向かった。これはスタルクバーン連邦と貿易をした初めてのエチオピア籍船舶である。エチオピア帝国船団はスタルクバーン連邦から様々な鉱石や珍しい動植物を手に入れ、再びメリダから出港した。エチオピア帝国船団は帰路にニューファンドランド島に寄港しタイタニック号の死者の冥福を祈った。エチオピア帝国船団はその後特に災難に襲われることなくエチオピア帝国に帰国した。ネワヤ・クレストスはエチオピア帝国船団の帰還を大いに喜び、その功績を称え副船長サイエ・ソラティエを三等宮廷貴族(子爵位相当)とした。サイエ・ソラティエはその後よくネワヤ・クレストスを支え宰相にまで上り詰めた。
第一回返礼貿易は1551年に行われた。スタルクバーン連邦は第二回貿易の返礼として新大陸特産の動植物系70種をエチオピア帝国へともたらした。ネワヤ・クレストスはこの返礼を大いに喜びスタルクバーン連邦との永遠の友情を約束した。ネワヤ・クレストスは金が新大陸や西アフリカで産出されやすいという情報を得ていたため、金の代わりに鉄鋼などやコーヒー豆などの特産品を持たせて使者を返した。
第三回貿易は1582年、ネワヤ・クレストスの後継ネワヤ・マリアムが即位した年に行われた。前二回の貿易により国内では帰還した船長は宰相に列せられるという噂が盛んであり、貴族・平民問わず推薦や応募に枚挙にいとまがなかったという。第三回エチオピア帝国船団船長に任命されたアストレアスは元海賊であった。大海賊ダヴィデの息子として生まれ、海賊として名を馳せたがエチオピア帝国水軍発足に伴い足を洗い、エチオピア帝国水軍の一部隊を担っていた。アストレアスはエチオピアの様々な特産品とかつての仲間を集め従来の地中海航路ではなく、喜望峰航路を通ってスタルクバーン連邦へ向かった。一行は困難に襲われることなく喜望峰を通過し、現在のブラジル、セアラー州にたどり着いた。アストレアスはセアラー州にかつて漂着した第一回貿易船団が拠点を築いていたことを知っていたといわれている。アストレアスはその拠点を利用しようとした。しかしエチオピア帝国船団が休養を取っていると現地人の一派に寝込みを襲われ、這う這うの体で船に逃げ出した。エチオピア帝国船団は即座に出港し、南アメリカ大陸に寄港しつつスタルクバーン連邦に向かった。アストレアスは無事に首都特別区での交易を終えると漁港カンクンからスタルクバーン連邦を後にした。しかしフロリダ沖でスペインの私掠船に襲われ、戦闘になった。アストレアスとその一派はよく戦い、スペインの私掠船を撃滅した。ガレオン船2隻を拿捕したが、船団は戦闘中の出火により一隻を失った。エチオピア帝国船団はジブラルタルを通ることを恐れ、喜望峰へと舵を切った。エチオピア帝国船団はマリ王国に寄港し、そこで再び交易を行った後、喜望峰に辿り着いた。しかし喜望峰で嵐に遭い足止めを食らった。この時アストレアスが同じく足止めを食らっていたポルトガルの商船の船長であり王族のパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスと誼を通じた。アストレアスはパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスと互いに冒険譚を語り合い、それを記述させた。帰国後、エチオピア帝国内で出版し、現在まで読み継がれる名著として知られている。エチオピア帝国船団は嵐が収まるとパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスの一行とともにソマリア半島付近までともに行動し、そこで帰国した。ネワヤ・マリアムはアストレアスの無事を心から喜びアストレアスをエチオピア帝国水軍の元帥とするとともに、二等宮廷貴族(伯爵位相当)とした。アストレアスはその後5年で水軍を引退し、宰相へと上り詰めた。
スタルクバーン連邦には第二回返礼は1588年に行われたとの記述があるが、遭難し、現在のモロッコに漂着した。スペインの商船によって保護された返礼船団は地中海航路を通ってエチオピア帝国へと到達し、歓待を受けた。スペインの商船は礼としてエチオピア帝国内での特別許可貿易(帝国が民間貿易制限品目に指定している品目を規定量の2倍まで輸出できる)を許された。
第四回貿易は1652年、ネワヤ・マリアムの後継ダウィト1世の後継テオドロス1世の即位に際して行われた。ダウィト1世はその航海の危険性と船長が宰相になるという風習の打破のために貿易自体を行わなかった。しかしダウィト1世の治世は帝国内で反乱がおき穏やかとはいかなかったことからテオドロス1世は貿易の再開を決意した。第四回エチオピア帝国船団は第三回と同じく喜望峰航路を用いてスタルクバーン連邦を目指した。この回の船団は大規模で、10隻のエチオピア帝国水軍と5隻の貿易船からなっていた。各貿易拠点の建築及び制圧を副目標として定められていた。エチオピア帝国船団は喜望峰で補給を行うと現在のアクラ近郊に寄港した。エチオピア帝国船団は貿易拠点をここに建築し、補給を行うと現在のブラジル、セアラー州に向かった。セアラー州で現地人を威嚇しつつかつての貿易拠点を接収し、補給を行うとエチオピア帝国水軍3隻を残して出港した。その後も大陸沿いに進みながら首都特別区で交易を済ませた一行は往路を辿りつつ帰国した。第四回エチオピア帝国船団の最大の功績は、西アフリカ・新大陸に貿易の拠点を抑えたことである。エチオピア帝国船団はエチオピア帝国水軍1隻、エチオピア帝国船団2隻をアクラ近郊の貿易拠点に残し喜望峰航路を使い帰国した。残った三隻は新大陸と西アフリカで積極的に情報収集及び交易を行い、12年後に帰国した。この時の記録は歴史家セイレイニ・ウリヌによって記録されている。曰く、西アフリカ人は誠実で丁寧だが欲深く、常に自らの利益になるように動いている。金と塩が同じだけの価値を持ち、道は金粉でおおわれている。内地には至る所に金鉱山がある場所があり、そこではすべての建物が金でできていて王は金の玉座に座っているという。また、南アメリカ大陸の現地人は勤勉で知恵に富んでいるが恩と時間を忘れやすい。密林の中に野蛮な民族がすんでおり、大人から子供まで男も女も迷い込んだ冒険者の首を音もなく狩っては枝にさして威嚇する天性のハンターだという。彼らは樹上生活を営んでおり、木の板でできた仮面に模様を描いて暮らしているという。赤い線の数が多いほど部族の中での階級が高く、青い線の数が多いほど人の首を狩っているという。第四回エチオピア帝国船団船長テオドリックはエチオピア帝国水軍元帥となったが、宰相にはならなかった。
第三回返礼貿易はアクラのエチオピア帝国拠点に寄港し、希望峰航路を通ってエチオピア帝国に到達した。テオドロス1世は返礼船団の冒険譚と大西洋交易拠点の様子に多大な興味を持ち、返礼貿易船団は艦隊を受けて帰国した。
第五回貿易は1682年、テオドロス1世の治世に再び行われた。テオドリック元帥の指揮下で再び各拠点への遠征が行われ、その後5隻の貿易船により喜望峰航路を通って行われた。
その後もエチオピア帝国とスタルクバーン連邦との間で公的貿易は続けられた。
最後の貿易は1782年に行われた第九回貿易である。地中海情勢の悪化と喜望峰航路の難しさからそれまでも何度も廃止論が出されてきたが、貿易の成果により廃止されなかった。しかし、国内情勢の不安定化と新大陸とヨーロッパ諸国の貿易の活発化から貿易の頻度は次第に衰退し、ついに貿易は廃止されることとなった。エチオピア帝国とスタルクバーン連邦との貿易はこれで途絶えていたわけだが、しかしその親交は依然として続いていた。多くのエチオピア商人やポルトガル商人が新大陸とエチオピア帝国をつなげ、多数の特産品をもたらした。
二千二十二年十二月にスタルクバーン連邦の外交使節団がアジス・アベバを訪れ、従来の両国の友好関係と今後の両国の発展を願い、本条約を締結するに至った。
また、本条約を締結した後であるが、外交使節団からエチオピア帝国の教育システムに対して意見があり、メンギスツ・ハイレ・マリアム宰相はスタルクバーン連邦や様々な団体の専門的な意見を聞きながらそれを改善する意欲を示した。
エチオピア帝国及びスタルクバーン連邦は、
有史以来の両国政府及び両国民の友好関係が如何なる国家にとっても無視できないほど大きく重要で、そして更なる発展の必要があることを確認し、
現在及び将来の両国民の友好と幸福を真摯に願うとともに、両国間の平和維持が国際協調の一助となることに合意し、
平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。
エチオピア帝国 外務大臣 デメケ・メコネン
スタルクバーン連邦 外務大臣 アレックス・ランスロット
これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。
第一条
1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第二条
両締約国は、そのいずれも、アフリカ・アラビア地域においても又は北部アメリカ・中央アメリカ地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第三条
両締約国は、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、相互に大使館を設置し、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第四条
両締約国は、相互に港を開放し、公的貿易を開始する。
第五条
この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。
第六条
1 この条約は、批准されるものとし、アジス・アベバで行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによつて終了するまで効力を存続する。
2 いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。
以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。
二千二十三年一月一日にアジス・アベバで、ひとしく正文であるアムハラ語及びアラビア語及び英語により本書三通を作成した。
エチオピア帝国のために デメケ・メコネン(署名)
スタルクバーン連邦のために アレックス・ランスロット(署名)
有史以来の両国政府及び両国民の友好関係が如何なる国家にとっても無視できないほど大きく重要で、そして更なる発展の必要があることを確認し、
現在及び将来の両国民の友好と幸福を真摯に願うとともに、両国間の平和維持が国際協調の一助となることに合意し、
平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。
エチオピア帝国 外務大臣 デメケ・メコネン
スタルクバーン連邦 外務大臣 アレックス・ランスロット
これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。
第一条
1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第二条
両締約国は、そのいずれも、アフリカ・アラビア地域においても又は北部アメリカ・中央アメリカ地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第三条
両締約国は、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、相互に大使館を設置し、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第四条
両締約国は、相互に港を開放し、公的貿易を開始する。
第五条
この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。
第六条
1 この条約は、批准されるものとし、アジス・アベバで行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによつて終了するまで効力を存続する。
2 いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。
以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。
二千二十三年一月一日にアジス・アベバで、ひとしく正文であるアムハラ語及びアラビア語及び英語により本書三通を作成した。
エチオピア帝国のために デメケ・メコネン(署名)
スタルクバーン連邦のために アレックス・ランスロット(署名)
タグ


コメントをかく