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キエフ・ルーシ公国

キエフ・ルーシ公国は、現在のウクライナを含む、東ヨーロッパと北ヨーロッパの広い範囲を支配していた中世ヨーロッパの大国の1つで、ヴァリャーク人(スカンディナヴィアのスウェーデン人)のリューリクにより創始されたリューリク王朝によって治められていた。なお当時キエフ公国の君主は「クニャージ」と呼ばれていたが、「クニャージ」の語源は英語の「キング」に相当する語であるとされ、このことから、キエフ・ルーシ王国などと呼ばれることもある。

リューリク王朝の創始者リューリクは、東スラヴ人に乞われてノヴゴロド(現在のロシア北西部)でノヴゴロド公となって東スラヴ人を統治し始めた。リューリクが死んだ時、リューリクの息子イホルはまだ幼かったため、一族のオレフが後見人となった。オレフはドニエプル川沿いの町キエフを占領し、キエフ公となり、ここに都を移した。これがキエフ・ルーシ公国の始まりである。

当時地中海はイスラム勢力の支配下になっており、西欧とビザンツ帝国を直接結ぶ東西のルートが遮断されていた。そのため、このルートの代替として、「ヴァリャークからギリシアへの道」と呼ばれるノヴゴロドからドニエプル川などの河川を下り黒海に出てビザンツ帝国へ向かう南北の交易路が栄えた。キエフ・ルーシ公国は、この交易によって大きく発展した。最盛期のヴォロディーミル聖公(キリスト教をキエフ・ルーシ公国の国教としたためこう呼ばれている)の時代、その支配領域はバルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈に広がっていた。ヴォロディーミル聖公の息子、ヤロスラフ賢公は、内政面ではそれまでの慣習法を「ルーシの法」として法典化、外政面では、遊牧民ペチェネグ人の攻撃を撃退し、また自分の娘をハンガリー、ノルウェー、フランスに嫁がせるなど、婚姻外交を推進した。

しかし十二世紀からキエフ・ルーシ公国は徐々に衰退を始めた。キエフ・ルーシ公国では、大公や公の地位について、兄弟相続を原則としつつ、父子相続も取り入れる、という中途半端な相続形式を採用していたため、代替わりのたびに兄弟親族間で争いが絶えなかった。これらの内乱や、ポロヴェツ人などの遊牧民の攻撃によりキエフは荒廃し、キエフ大公の地位は低下、ノヴゴロド公国、ウラジミール・スーズダリ公国、ハーリチ・ヴォルイニ公国など諸公国が力を持って互いに争いを繰り広げるようになり、キエフ・ルーシ公国は実質的には複数の諸公国の連合体になった。また、12世紀には、十字軍の遠征などで地中海交易が再び活発なものとなり、キエフ・ルーシ公国を栄えさせた交易路が衰退した。

1223年、モンゴル軍の先遣隊がキエフ・ルーシ公国に現れ、アゾフ海近くのカルカ川の河畔でルーシ諸公の軍を大敗させた。しかしルーシ諸公は、モンゴル軍のことをペチェネグ人やポロヴェツ人などのそれまでの遊牧民と同じように考えて侮っていた。そして、チンギスハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍の本格的な征服軍が1237年にキエフ・ルーシ公国に現れた。リャザン、スーズダリ、ウラージミルなど北部・東部の都市を陥落させた後、1240年、バトゥの軍勢はキエフ市を包囲した。キエフの市民たちはキエフ・ルーシ大公の派遣した軍事指導者ドミトロに率いられて抵抗したが、長い籠城戦の末、1240年末にキエフは陥落した。こうして、キエフ・ルーシ公国は滅亡した。キエフ・ルーシ公国を征服したバトゥは、ヴォルガ川下流に都サライを置き、キプチャク・ハン国を建国した。

ハーリチ・ヴォルイニ公国とポーランド・リトアニア

キエフ・ルーシ公国は滅亡したが、個々の諸公国はただちに消滅したわけではなかった。ほとんどの公国は、モンゴルの支配を受け入れ、税を納める代わりに存続を認められていた。ハーリチ・ヴォルイニ公国もそのような諸公国の1つであった。

ハーリチ・ヴォルイニ公国は「最初のウクライナ国家」と呼ばれる。これは現代のナショナリズムの問題と結びついている。現在、ロシア政府と大ルーシ(ウクライナ)政府の双方が、自国こそが「キエフ・ルーシの正統な後継国家」であると主張している。ロシア側が「キエフ・ルーシ公国が滅亡した後、ウクライナの地にキエフ・ルーシ公国の後継国家は存在しなかったので、モスクワ公国がキエフ・ルーシ公国の正統な後継国家である」と主張している一方、大ルーシ(ウクライナ)側は「キエフ・ルーシ公国滅亡後も、ウクライナの地にハーリチ・ヴォルイニ公国は100年ほど存続しており、このハーリチ・ヴォルイニ公国こそキエフ・ルーシ公国の正統な後継国家である」と主張している。

ハーリチ・ヴォルイニ公国は、1199年、ヴォルイニ公ロマンによってハーリチ公国とヴォルイニ公国が合併されて建国された。ロマン公は1200年にキエフを占領したが、前述したように内乱で荒廃したキエフに魅力を感じず、ハーリチにとどまった。そのロマン公の息子ダニーロは、ハーリチ・ヴォルイニ公国の最盛期を築いた。現在、ウクライナ西部の中心都市となっているリヴォフは、元々彼が建設したもので、彼の息子レフがその名の由来である。ダニーロは、バトゥに臣従の礼を示すことで公国の存続を認められつつ、バトゥが死んだ後にはローマ教皇に反タタール十字軍を呼びかけてキプチャク・ハン国と戦い、教皇から「ルーシの王」の称号を受けた。また、同時期のハーリチ・ヴォルイニ公国は、リトアニアからも攻撃を受けていた。リトアニア人は先史時代からバルト海沿岸に住んでいて、ポーランドがカトリック、キエフ・ルーシ公国が正教に改宗した後も、その地で独自の信仰を守っていた。異教徒であるリトアニア人の土地をキリスト教化しようとドイツ騎士団が圧迫したが、この戦いを経てリトアニア人は逆に力をつけ、周辺のスラヴ諸国に打って出るようになった。ダニーロは諸外国と同盟を結ぶことで、リトアニアによる侵食を食い止めていた。

しかしダニーロが死んでしばらく経った14世紀、ハーリチ・ヴォルイニ公国は周辺国からの侵食を防ぎきれなくなった。まず、ダニーロの時代から争っていたリトアニアが、ゲディミナス大公に率いられて進出してきた。そして、ゲディミナスの死後もリトアニアはルーシの地への拡大を続けた。この版図拡大の過程で、多くのリトアニア人はすぐにスラヴ人の文化に染まり、正教に改宗し、またルーシの地の言葉で話すようになった。

続いて、カジミェシュ大王率いるポーランドが、ハーリチ・ヴォルイニ公国の公位継承に干渉し攻撃を開始、こうして1340年代にはハーリチ・ヴォルイニ公国は滅亡した。その後、リトアニアとポーランドの両国は、旧ハーリチ・ヴォルイニ公国領の取り分をめぐってしばしば争った。

さて、ポーランドのカジミェシュ大王には男子継承者がいなかったため、カジミェシュ大王の死去後ポーランドの王位はハンガリー王ラヨシュ1世に引き継がれた。そして、そのラヨシュ1世にも男子継承者がいなかったため、ラヨシュ1世の娘ヤドヴィガが1384年に王位を継承した(ヤドヴィガはポーランド初の女王であった)。ポーランドの貴族たちは、ヤドヴィガの婿について、ドイツ騎士団という共通の敵を抱えていたリトアニア大公国の君主を選ぶこととした。1385年、リトアニアのヴィリニュス近郊のクレヴァにて、リトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤゲヴォ)はカトリックの洗礼を受け、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、並んでポーランド王になることを取り決めた。正式な結婚は翌年執り行われ、同年、ヤゲヴォはポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。こうして、ポーランドにヤゲヴォ王朝が誕生した(尤も、この結果直ちにポーランドとリトアニアがひとつの国になったわけではない。リトアニアはヤゲヴォとは別に、自前の大公を擁立し、別の国としての独自性を保持した。ゲディミナスの孫ヴィタウタス大公の時代(1392〜1430)はリトアニアの全盛期であり、バルト海から黒海にまたがる広範な地域を支配した)。そして1410年、ポーランドとリトアニアの連合軍は、グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)で、長年の宿敵であったドイツ騎士団を破った。

ポーランドとリトアニアがますます一体となったのは、1569年に「ルブリンの合同」以降である。このルブリンの合同によって、ポーランド・リトアニアは共通の王と議会を持つ「連合国家」となったが、軍事、財政、行政組織については別個の組織が存続していた。なお、この「ルブリンの合同」でリトアニアが支配していたウクライナの地域はポーランド王国に渡されたため、リトアニアによるウクライナ支配は終了し、以降ウクライナ地域はポーランドによって支配されていくこととなった。

ポーランド・リトアニア支配下のウクライナ

ハーリチ・ヴォルイニ公国滅亡後、約300年間にわたって、現在ウクライナと呼ばれる地域のほとんどがポーランド・リトアニアの支配下に置かれたことは、ウクライナ地域の人々の生活を悪化させたが、その一方で、ウクライナ地域のアイデンティティー形成にとって、非常に重要でもあった。

ポーランド・リトアニアの支配下、特にポーランドの支配下のウクライナの社会の特徴としては、貴族の力が強まり、他の階層の力が弱まっていったことが挙げられる。ポーランドでは、1505年に可決されたニヒル・ノヴィ法によって、当時の国王アレクサンデルが、元老院(主に聖職者やマグナトと呼ばれる大貴族からなる)と下院(主にシュラフタと呼ばれる中小貴族からなる)の同意なしには自分と自分の後継者はいかなる新しいことも決議しないことを宣言するなど、王権が弱められていった。1572年にヤゲヴォ朝最後の王であるジグムント2世が死去すると、以降の王は貴族による選挙で選出されることとなった。選出された王は、戴冠に先立ち、「王は自分の子孫に王位を渡してはならないこと」「選挙の自由を損ねてはならないこと」「議会の同意なしに国の問題を決めたり、シュラフタの特権を制限しないこと」などを定めた「ヘンリク条項」に調印するように求められた。

このようにして強い力を持った貴族は、王権だけでなく、他の階層の権限も弱めていった。当初、リヴォフなどの大きな町は、ドイツの自治都市に倣ってある程度の自治を認められていたが、16世紀はじめ、貴族たちは議会での町民の投票権をはく奪、さらには、町の商人が外国と取引をすることも禁止した。外国との取引は貴族が直接行うようになったため、貴族の富裕化が進み、また町で生活できなくなった職人たちは貴族の領地へ移住した。こうして、各地の町は衰退した。

町民のみならず、農民の境遇も悪化した。15世紀中頃より、貴族は村の自治を奪い取り、直接統治に乗り出した。結果、農民は貴族たちにより土地を所有する権利を奪われ、さらに、領主に不満があっても自分の村を離れることが禁止された。こうして、キエフ・ルーシ公国時代には自由民だった農民のほとんどは、16世紀末には大部分が農奴となっていた。さらに16世紀の西欧では、新大陸からの銀の流入に端を発して小麦の価格が高騰していたため、利潤を求めた貴族たちはウクライナの肥沃な穀倉地帯の農民に対する搾取を強めた。

このように、この時代のウクライナの人々は厳しい状況に置かれたが、一方で、現在のウクライナのアイデンティティの形成にもつながった。

まず重要なのが、スラヴ人の民族分化が進んだことである。キエフ・ルーシ公国の時代には、その領域のほとんど全域にわたって単一のスラヴ民族が分布していた。しかし、この300年間の間に、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの3民族に分離した。この分化には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ、リトアニア、ポーランドの3か国により分割され、それが長期間固定されたことが関わっている。

またこの時代には、現在ウクライナのナショナリズムのシンボルの1つとなっている、「ユニエイト」(ギリシア・カトリックなどとも呼ばれる)、というウクライナ独特の信仰(教会)も誕生した。ルーシの地では元々正教が広まっていたのに対し、ポーランドはローマ・カトリックの信仰が強い国であった。元ルーシの貴族とポーランドの貴族では、ポーランドの貴族の方が様々な特権を享受することができたため、ルーシの貴族たちはカトリックに改宗することで、ポーランドの貴族たちと対等になろうとした。また、キエフ・ルーシ公国時代にルーシ全体の教会を統括していたキエフ府主教は、もはや実際にはキエフに住んでおらず、ウクライナから離れたルーシ北東部、ウラージミルやモスクワで暮らしていた。このような経緯から、ウクライナの正教は、カトリックと比べて政治的な力を失っていた。そこで、ウクライナを支配したポーランドは、ウクライナの正教とローマ・カトリックを合同させることを考えた。

1569年ブレストにて、カトリックと正教の間で合同についての会議が行われたが、結局意見がまとまらず、正教の一部のみがカトリックと合同することになった。こうして、ウクライナ独特のユニエイトという教会が誕生した。ユニエイトは、ローマ教皇に忠誠を誓うとされたが、正教の典礼に従い、グレゴリオ暦を用いるカトリックとは異なりユリウス暦を使用し、また聖職者の結婚も認められることとなった。ユニエイトは、ドニエプル川以西の地域で主要な宗教となったが、後にこの地域がロシア帝国に編入されると、モスクワに忠誠を誓わず、ローマへの忠誠を続けようとしたため、ユニエイトの信仰はロシア帝国内で禁止とされた。その後、ソ連時代にもユニエイトは弾圧を受けた。このような経緯から、ユニエイトはウクライナ地域のナショナリズムのシンボルとなっている。

さらに、ポーランド・リトアニア支配下のウクライナにおいては、有名なコサックも誕生した。

コサックの誕生

コサックとは、15世紀頃からウクライナ中南部やロシア南部のステップ地帯に住み着いた自治的な武装集団、およびその構成員のことを指す。コサックの誕生した背景には、キプチャク・ハン国の衰退がある。

14世紀末頃から、キプチャク・ハン国はリトアニアやティムール帝国の攻撃により弱体化、辺境部ではカザン・ハン国やクリミア・ハン国が独立した。1480年には、かつてのルーシ諸公国を併合し特に力を持つようになったモスクワ大公国が、キプチャク・ハン国による支配、いわゆる「タタールのくびき」から脱却した。このようにして弱体となったキプチャク・ハン国は、1502年に滅亡した。クリミア・ハン国はその後オスマン帝国の宗主権を認め、オスマン帝国の属国となった。この頃、ウクライナ中南部のステップ地帯では、ノガイ・タタールと呼ばれる遊牧民がルーシ人の町や村を襲撃し、奴隷狩りをするようになった。クリミア・ハン国は、ノガイ・タタールから仕入れた奴隷を、軍やハーレムのために常に奴隷を必要としていたオスマン帝国に売り払うことで利益を得ていた。

このように、当時のウクライナは非常に治安の悪い地域となっていたため、人口は希薄で、荒れ果てていた。一方で、ドニエプル川やその支流の周辺は、非常に豊かな土地でもあった。この地域が豊かな土地であることは、徐々に噂として広まり、最初は数日間、続いて夏の全期間、そして年中滞在する人々が現れた。このような人々は、タタールによる奴隷狩りから身を守るため、武装組織を作るようになった。武力を身につけた彼らは、逆に、タタールの家畜を盗んだり、オスマン帝国の隊商を襲撃したり、クリミア・ハン国やドナウ川河口のオスマン帝国の町や村を攻撃したりするようにまでなった。こうした人々が、コサックと呼ばれるようになった。前述したように、ポーランド・リトアニアでは農民に対する貴族の締め付けが厳しかったため、逃亡してコサックに加わる農民もいた。

コサックの中には、ポーランド・リトアニアの国境警備を担ったり、大領主に私兵として仕えたりするような者も現れた。ドニエプル川の中流から下流にかけて、彼らの住む「コサック町」がいくつも出来た。このコサック町は、王に任命された「ヘトマン」と呼ばれる貴族によって率いられた。後に、この「ヘトマン」の地位は、コサック全体の首領としてコサック達自身により選ばれることとなる。

一方、より大きな自由を求めて、ドニエプル川のさらに下流に住もうとした者達は、「シーチ」と呼ばれる要塞化された拠点を建設した。1530年頃、後にウクライナのコサックの中心地となる「ザポロージェ・シーチ」が建設された。ロシアのドン川周辺にもコサックと呼ばれる同じような人々が暮らしており、これと区別するため、ウクライナのコサックは「ザポロージェ・コサック」、ロシアのコサックは「ドン・コサック」と呼び分ける。

当時のポーランドは前述したように、貴族の力が強く、国王が外国を相手に戦争をする際、兵士や戦費を調達するには貴族らの議会の承認を得る必要があった。しかし、議会は王の戦争を承認しないことがあった。そこで、ポーランド国王は、コサックを戦力として利用した。一方、コサックは誕生の経緯から自立志向が強く、ポーランド国王の承認を得ないまま、外国に遠征して略奪などを働くことがあった。ポーランド王はこのようなコサックを統制下に置くため、登録制度を導入した。登録コサックには王国の軍人としての地位や、土地の所有が認められ、軍人としての給料も支払われた。

コサックの栄光

ザポロージェ・コサックは、待遇の改善(登録コサックの人数枠の増加など)を求め、度々反乱を起こした。その中でも最も大規模なものが、1648年に起きたボフダン・フメリニツキーの乱であった。反乱のきっかけは、1647年、チヒリンというコサック町の副官を務めていたポーランド貴族チャプリンスキが、登録コサックであったフメリニツキーの土地の所有権を主張し、彼の領地を襲撃し、彼の末子を殺し、彼が再婚しようとしていた相手の女性を拉致したことであった。チャプリンスキはポーランドの大貴族の庇護を受けていたため、フメリニツキーの訴えは誰にも聞き入れられず、逆にフメリニツキーは逮捕されてしまった。牢から出たフメリニツキーは、ポーランドに対する反乱を決意、ザポロージェ・シーチに逃れると、コサック達に反乱を呼びかけた。以前コサック達がポーランドに反乱を起こし大敗北した時以来、コサックの自治・権利は大幅に抑制され、登録コサックの数も減らされていたため、コサック達はポーランドに対し不満を持っていた。また、農民たちも、ポーランド貴族のウクライナ中南部への進出が進み、徐々に自分たちの土地が取り上げられ農奴とされていくことに不満を持っていた。フメリニツキーの雄弁はこうした人々を動かした。フメリニツキーはコサック達からヘトマン(首領)に任じられた。

フメリニツキーは、ポーランドと戦うのにコサックのみでは力不足であると考え、まず、クリミア・タタールと手を結んだ。1648年5月、コサックとタタールの連合軍9000人は、ポーランド軍6000人を破った。1648年の夏の終わりには、フメリニツキーのコサック軍は8万〜10万人にまで膨れ上がっており、9月にポーランド軍8万人を再び破り、ワルシャワの近くまで迫った。これに対しポーランド王ヤン・カジミェシュが、コサックの伝統的権利を認めることや、コサックは土地の貴族ではなく王にのみ従えば良いことなどを約束するとして一旦和平を呼びかけたため、フメリニツキーはこれに応じてキエフに帰った。

しかし1649年夏には戦闘が再開され、フメリニツキー率いるコサック・タタール連合軍はポーランド軍をズボリフで包囲し、休戦協定としてズボリフ休戦協定を結ばせた。この協定では、キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州の3州をコサック領とし、これらの地域からポーランド軍、ユダヤ人、イエズス会を排除することが取り決められた。こうして、「ヘトマン国家」が誕生した。キエフ周辺にヘトマン国家ができたため、ザポロージェ・シーチはウクライナのコサックの中心ではなくなった。

その後1651年に、再びポーランド軍との戦いが始まった。6月、ベレステチコの戦いが起きたが、戦闘中に同盟を結んでいたはずのタタール軍が無断で撤退を開始、タタール軍を問い詰めて引き戻そうとしたフメリニツキーは、逆にタタール軍に捕らえられてしまい、コサック軍は敗走した。9月、ビラ・ツェルクヴァで再び休戦協定が結ばれ、登録コサックの数は2万人に減らされ、また「ヘトマン国家」の範囲はキエフ州のみに縮小された。翌年、再びポーランド軍とコサック軍は衝突、フメリニツキーはバティフの戦いでポーランド軍に大勝したが、ポーランド側は和平を拒否、交渉は進展しなかった。その後、しばらく決定的な勝敗がつく戦いは起きなかった。

この間フメリニツキーはヘトマン国家存続のため、タタールとの同盟に代わるような、外国による保護や外国との同盟を求めてあらゆる国々と接触したが、多くは実を結ばなかった。しかし1654年、フメリニツキーはモスクワ大公国からの保護協定を取り付けた。この協定は、協定が結ばれた都市の名をとって、ペレヤスラフ協定と呼ばれる。協定では、ツァーリはコサック達に軍事援助を行うこと、登録コサックの数は6万人とすること、コサック達の広範な自治の権利を認めることなどが定められた。一方、フメリニツキーがモスクワと手を組んだことを知ったポーランドは、タタールと手を組んで、ベラルーシなどの地域で、モスクワおよびコサックの連合軍としばらく戦いを繰り広げた。

1655年、ウクライナのコサック達との長い戦いで力を失いつつあったポーランドに、突如スウェーデンが侵入した。ポーランドの大貴族の一部は、スウェーデン軍に降る方が有利と考え、祖国の防衛に消極的な姿勢を示した。このため、スウェーデン軍は比較的短期間のうちにポーランド内陸部まで進出することに成功した。スウェーデン王のカール10世は、フメリニツキーに、モスクワ大公国の専制君主制は、コサックの自由や独立に相容れないものだとして、モスクワと決別するよう促した。モスクワは、フメリニツキーがスウェーデンに傾きつつあることを察知、またスウェーデンが強大化することはポーランドのみならずモスクワにとっても望ましくはなかったため、1656年、モスクワ大公国は突如ポーランドと和平協定を結んだ。フメリニツキーは、スウェーデンやその他の周辺諸国と共にポーランドとの戦いを続けたが、1657年、病に倒れ死去した。1660年、スウェーデンはポーランドと和約を結び、軍を撤退させた。

フメリニツキーの死後約20年間、モスクワ大公国、ポーランド・リトアニア、クリミア・ハン国を巻き込んだ戦争、コサックらの反乱、そしてコサック内部での対立抗争が頻発し、ウクライナ地域は再び荒廃した。この時代は「荒廃」の時代と呼ばれる。1667年、モスクワとポーランドが結んだアンドルソヴォ条約では、ドニエプル川右岸地域(西岸地域)におけるポーランドの主権と、ドニエプル川左岸地域(東岸地域)におけるモスクワの主権をモスクワとポーランドが相互に認め合い、ウクライナ地域は分割された。

1700年、ポーランド議会はドニエプル川右岸地域においてコサック制度を廃止した。こうして、ドニエプル川右岸地域では、ポーランドの貴族が農民を再び農奴化して贅沢な生活にふけった。「ハイダマキ」と呼ばれる野武士のような集団が貴族の荘園を襲撃するようになり、圧政に苦しむ農民の支持を得たが、彼らは組織化されておらず、またフメリニツキーのような優れた指導者にも恵まれず、政治的な目標もはっきりしていなかったため、コサックのような一大政治勢力に発展することはなかった。
 
一方、ドニエプル川左岸地域には、モスクワの宗主権下ながらもコサックの自治政府が存続していた上、戦乱の被害も右岸地域よりも少なかったため、右岸地域から多くの移民がやってきた。

ヘトマン国家の終焉

ドニエプル川左岸に残ったヘトマン国家は、ペレヤスラフ協定で定められたコサックの自治や権利を守ろうとした。一方モスクワ大公国は、ヘトマン国家の自治を弱め、間接統治から直接統治に移行しようとした。ヘトマン国家では、スタルシーナという長老たちが貴族化していたため、モスクワは一般のコサック達のスタルシーナに対する不満を煽ることで、ヘトマン国家が結束することを妨げた。

1709年、ヘトマン国家がモスクワの支配から逃れようとして起こした最後の戦い、ポルタヴァの戦いが起きた。この時コサックを率いていたのは、イヴァン・マゼッパという人物である。マゼッパは、社交能力が高く、人に取り入ることが上手かったため、モスクワ大公国に気に入られ、1687年からヘトマンに就任していた。また、マゼッパは1689年にツァーリとなったピョートル1世の黒海への南下政策に協力し、彼の信頼も勝ち取った。ピョートル1世はマゼッパに気前よく領地を与え、マゼッパも長年コサック兵を率いてピョートル1世のために戦った。マゼッパは元々ドニエプル川右岸出身で、左岸のコサックには人気がなく、彼を排除する企てもたびたびあったが、モスクワと協力することで乗り切った。しかし、マゼッパとピョートル1世の関係は1700年以降冷え込んでいった。

ピョートル1世は、中央集権国家を作ろうとしており、ヘトマン国家についてもいずれは直接統治に移行することを目論んでいたのに対し、マゼッパは、ツァーリとの良好な関係を利用してヘトマン国家の自治を拡大しようと考えていた。また、ピョートル1世は、国家のためならば臣民にどんな犠牲を強いることを厭わないツァーリであった。黒海への南下政策が成功した後、ピョートル1世は続いてバルト海に目を向け、カール12世率いるスウェーデンとの戦争に踏み切った。こうして始まった大北方戦争では、コサックは遠く離れたバルト地域での戦闘に動員され、消耗品のごとく使われた。このようなピョートル1世に対し、マゼッパは疑念を募らせていった。

同時期のポーランドでは、大北方戦争にポーランドを参戦させた国王アウグスト2世(ザクセン公アウグスト)に反対する貴族らが、当時ポズナン県(現ポーランド西部)の知事を務めていたスタニスワフ・レシュチンスキを国王に選出、両者による争いが起きていた。レシュチンスキがヘトマン国家に侵入しようとしたため、マゼッパはピョートル1世に援軍を求めたが、ピョートル1世はスウェーデンとの戦いで忙しく、援軍を送ることはなかった。この頃から、マゼッパはスウェーデンとも接触するようになった。

1708年、スウェーデン軍がリトアニアからモスクワ領に攻め込み、さらにウクライナにまでやってきた。ピョートル1世はマゼッパに、スウェーデンと戦うように命じた。1700年のナルヴァの戦いではカール12世率いるスウェーデンがピョートル1世に大勝していたこともあり、スウェーデンに勝ちの目があると考えたマゼッパは、ついにスウェーデンと結ぶことを決断した。このことを知ったピョートルは、ヘトマン国家の首府を破壊すると共に、親モスクワのコサックたちに新たなヘトマンを選出させた。マゼッパはヘトマン国家のコサックの間であまり人気がなく、彼に味方したコサックの数は、彼が予想していたほど多くはなかった。

こうして1709年にポルタヴァで、スウェーデン軍およびマゼッパに味方したコサックたちの連合軍と、モスクワ軍およびモスクワに味方したコサックたちの連合軍が激突した。結果は、モスクワ側の圧勝であった。以降、大北方戦争はモスクワの有利に進み、1718年にはカール12世が戦死、1721年、ニスタット条約でスウェーデンは多くの領土を喪失した。同年、ピョートル1世は「インペラトール」の称号を受け、ロシア帝国が建国された。

その後、ロシアによるヘトマン国家への締め付けはより一層厳しくなった。エリザベータ女帝の時代には一時締め付けが緩和されたが、中央集権と国家の近代化を目指す啓蒙専制君主エカテリーナ2世の時代には、コサックたちの権利は再び縮小されていった。1764年、最後のヘトマンとなったキリ口・ロズモフスキーが退任、以降ヘトマンは置かれず、代わりにロシア人を長とする小ロシア参議会が設置された。そして1780年には、小ロシア参議会も廃止され、キエフ、チェルニヒフ、ノヴホロド・シヴェルスキーの三県が設置され、ロシア帝国の一地方となった。こうしてヘトマン国家は、フメリニツキー以来130年余りの歴史に幕を下ろした。

ポーランド・リトアニアの滅亡

アウグスト2世の息子アウグスト3世が死去すると、ポーランドでは、ロシアの女帝エカテリーナ2世の寵臣でもあった、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが国王に選出された。彼はポーランドを立て直そうと諸改革に取り組もうとした。しかし、ポーランドでの改革の動きを警戒するロシアは、ワルシャワに派兵し、国会を包囲した。このやり方に反発したポーランドの貴族たちは南部の都市バルに集結し、武装連盟を組織した。バルの武装連盟は善戦し、幾度かロシア軍を破ったが、最終的に1772年、ロシアの軍門に降った。1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアにより第1次ポーランド分割が行われた。

1791年、ポーランドの国会では、改革反対派の貴族が不在となる春の休暇を狙い、改革賛成派によって「五月三日憲法」が採択された。新しい憲法では、選挙王政の廃止、これまで改革を阻んできたリベルム・ヴェト(自由拒否権、代議員一人の反対で議会を流会させられる権利のこと)の廃止と多数決制の採用、貴族の権利の縮小、納税を貴族にも義務づけることなどが定められた。この憲法は、当時としてはアメリカ合衆国憲法に次ぐ先進的な憲法であった。この五月三日憲法に反対する貴族たちは、ロシアに軍事介入を要請、この軍事衝突にロシアは勝利し、ロシアとプロイセンによって第二次ポーランド分割が行われた。

1794年、アメリカ独立戦争でワシントンの副官を務めていたことで知られるポーランド軍人コシチュシュコに率いられて、ポーランド人が武装蜂起を起こした。4月、ラツワヴィツェの戦いで、草刈り鎌で武装した農民たちがロシア軍を打ち破る大金星を上げるなど、ポーランド側は奮戦したが、10月、マチェヨヴィツェの戦いで敗れ、コシチュシュコはロシア軍の捕虜となった。1795年の第3次ポーランド分割により、スタニスワフ・アウグストは退位に追い込まれ、ポーランドはヨーロッパの地図上から消滅した。

ウクライナは、西部のガリツィア (ウクライナ語でハーリチナ)地方およびブコヴィナ地方がオーストリアに、それ以外の大部分はロシアの支配下に置かれた。ウクライナの黒海沿岸にはオデッサ、ニコラエフ、ヘルソンなど多くの都市が建設され、ウクライナの肥沃な土地で生産された穀物を輸出する港となった。

ロシア帝国、そしてソ連の下で

その後のウクライナはロシア帝国やオーストリア帝国の一地方という扱いを受けていた。ロシア帝国は、ウクライナ地域を「小ロシア」と呼び、移民政策によりロシアへの同化を進めた。一方ウクライナ人の中には、支配から逃れるため、シベリアや極東へ開拓民として赴く者も現れた。

1914年に始まった第一次世界大戦では、ウクライナを含む東欧地域一帯で、ロシア帝国と、ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国などからなる中央同盟国の激戦が繰り広げられた。長引く戦いに、ツァーリの帝政への民衆の不満は鬱積し、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で2月革命が起き、長く続いたツァーリの帝政はあっけなく終焉を迎えた。ツァーリの帝政に代わって、ロシアは臨時政府とソヴィエトの二重権力状態に陥った。この事件を受けてウクライナでは、諸政党が結集、3月にはウクライナ中央ラーダが結成され、ロシア臨時政府から支配下にとどまる代わりに自治を認められた。

しかしロシア臨時政府は協商国の求めに応じて戦争を継続することを選び、ロシアの民衆は臨時政府に失望した。臨時政府の首班ケレンスキーは、中央同盟国に対する大規模な攻勢を命じたが、ロシアの兵士の士気はもはや壊滅的な状態にあり、多数の部隊が上官の命令を拒絶し脱走しはじめた。このような状況下にあって、ロシア軍の攻勢はうまくいくはずもなく、それどころか、逆に中央同盟国の軍勢がロシア軍を圧倒し、内陸部へ雪崩れ込む事態となった。このような状況下で10月、レーニンを筆頭とするボリシェヴィキ率いるソヴィエトが臨時政府を打倒する10月革命が発生した。ウクライナ中央ラーダはボリシェヴィキの暴力による権力奪取を非難し、またウクライナ人民共和国の創設とロシアからの独立を宣言した。このため、ボリシェヴィキの赤軍とウクライナの間で戦闘が始まった。

この戦いの最中、ウクライナは、ドイツに対し介入と支援を要請、ドイツ側は、不足する食料を補うため、ウクライナがドイツに穀物を引き渡すという約束と引き換えにこの戦いに介入することを決め、これにより一時的に赤軍を追い出すことに成功した。しかしウクライナの中央ラーダ政府は、食糧を調達する行政能力を欠いており、ドイツとの約束を果たすことができなかった。ドイツ軍は中央ラーダを解散させ、「ウクライナ国」というヘトマン国家を自称する事実上の軍事独裁政権を傀儡として建てた。しかし1918年12月、ドイツの西部戦線での敗色が濃厚となると、ドイツ軍はウクライナから撤退してしまった。同月、シモン・ペトリューラ率いる元中央ラーダ政府の軍勢がヘトマン政権を追放、再び国号をウクライナ人民共和国に変更した。
 
しかし、戦乱はこれで終わらなかった。ロシア内戦に巻き込まれたウクライナでは、北や東から赤軍、西からポーランド軍、南東から反革命の白軍、南西からルーマニア軍、さらに国内ではネストル・マフノ率いる無政府主義者の軍勢が入り乱れて争い、混沌状態に陥った。結果、中央ラーダ政府によるウクライナ人民共和国体制は3か月しか持続しなかった。最終的に、ボリシェヴィキが内戦に勝利し、赤軍によって侵略され平定されたウクライナにはウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国が誕生、1921年にソ連が建国されると、その最初の構成国の1つとなった。

レーニンの後継となったスターリン政権下、ウクライナではソ連の他の地域に違わず、粛清の嵐が吹き荒れた。さらに、この時期のソ連は、穀物を輸出して得た外貨で機械を輸入し急速な工業化を目指していたため、穀倉地帯ウクライナでは悪名高い飢餓輸出が行われ、大勢の餓死者が出た。この悲劇は「ホロドモール」として知られている。ハリコフ、ドネツク、ルガンスクなどウクライナ各地にも重工業の集積地が建設されたが、この急速な工業化は、ウクライナを始めとする各地の人民、特に農民のおびただしい犠牲の上に築かれたものであった。

ナチス・ドイツがソ連に攻め込むと、ウクライナも激戦地となった。開戦当初、ソ連軍は致命的な情勢判断の誤りによる準備不足のため、ドイツ軍の猛進撃を許した。当初ウクライナ西部では、ドイツ軍はソ連の過酷な統治からの解放者として歓迎されたが、ドイツ軍はウクライナの民族主義者を弾圧すると共に、各地でユダヤ人に対して徹底的な殺戮を行った。ウクライナでは、ドイツ軍相手に戦う赤軍パルチザンの他、ドイツ軍とソ連軍両方を相手に戦う「ウクライナ蜂起軍」と呼ばれるパルチザンが活動した。1943年、コーネフ、ヴァトゥーチン、マリノフスキーらの率いる赤軍はウクライナの地を奪還するため大軍を率いてウクライナに入り、激戦により膨大な犠牲を出しつつ天然の要害であったドニエプル川を渡ることに成功、11月にはキエフを再占領し、翌年10月にようやくウクライナ全土を回復した。

戦後、スターリンが死去し、フルシチョフが最高指導者になると、非スターリン化の名の下に統制が緩められた。フルシチョフはウクライナ人でこそなかったものの、若い頃にウクライナ東部のドンバス地方で金属工として働いた経験があり、またその後も共産党の官僚として長くウクライナで過ごしていたため、スターリンよりもウクライナに好意的であった。フルシチョフはまた、1954年にクリミア半島を「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証」としてウクライナに移管した。

フルシチョフ失脚後に最高指導者となったブレジネフの長期政権下でソ連経済は失速、後任のゴルバチョフ政権はグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再建)と呼ばれる2つの改革を開始した。しかし、ペレストロイカは既得権益と衝突して遅々として進まず、さらに、グラスノスチによって、それまで民族主義をコントロールするために封印されてきた様々な歴史的事実が明らかにされ、各地で民族主義が高揚するようになった。そして1991年8月24日、キエフのウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国最高会議は、ウクライナの独立宣言を採択した。フメリニツキーが志半ばで倒れておよそ350年、中央ラーダ政府が内戦の混沌の中で瓦解してから72年が経過してのことだった。同年12月、ロシア、ベラルーシ、ウクライナはソ連の解体と独立国家共同体の結成を宣言、25日、ゴルバチョフは巻き返しを諦めてソ連大統領を辞任、ここにソヴィエト連邦70年の歴史は、そしてあまりにも長すぎた、外国勢力によるウクライナ地域の支配の歴史は幕を閉じた。

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