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テソモニアの歴史は国家的歴史なら800年以上、文化的歴史なら2000年以上あり、紀元前4世紀-紀元前後のバニ海低地におけるイヌイット系民族のシベリア再定住から始まる。イヌイット系民族は後にカムチャツカ・チュクチ系民族と血が混ざり、のちにエルブレーム人として統合されることとなる。またエルブレーム人は再度突厥系と血が混ざり、細分化していくがここでは深く述べない。(テソモニアの民族?を参照)テソモニアの歴史は大きく6つの時代に分けることができる。先エルブレーム時代(紀元前4世紀 - 11世紀)、エルブレーム王国(1259年 - 1901年)、共和制エルブレーム(1901年 - 1911年)テソモニア人民共和国(1911年 - 1993年)ソビエト・テソモニア社会主義共和国(1928年 - 1988年)テソモニア民主共和国(1993年 - )である。
またこれらの時代区分は文化的政治構造的転換ポイントから12の時代に分けられることができる。テッソイヌイット(新イヌイット系による文化創生)、(紀元前4世紀 - 2世紀)、カムチャツク(カムチャツカにおける文化の集積と多様化)(紀元前後 - 5世紀)、地方集落国家時代(5世紀 - 11世紀)、遊牧エルブレーム時代(10世紀 - 1262年)、エルブレーム創成期(1259年-1466年)四方面エルブレーム時代(1371年 - 1423年)、エルブレーム封建期(1466年 - 1748年)、エルブレーム中央集権期(1748年 - 1901年)共和制エルブレーム(1901年 - 1911年)テソモニア人民共和国(1911年 - 1993年)ソビエト・テソモニア社会主義共和国(1928年 - 1988年)テソモニア民主共和国(1993年 - )である。

概要

伝統的にテソモニアの歴史の始まりは、エルブレーム族の部族族長の一人、ヤキビックが1237年のモンゴル帝国の進軍を撃退したことによる権力集中からラビア一帯(クルトーナ川中流域)を支配し、ラビアを建設したところからだと考えられている。1242年にはヤキビックが部族長たちの反乱を誘発そして撃破していき、1258年にヤクート族最大の都市であったヤクートウーク(現ヤクーツク)を支配したところで、周辺部族のヤキビックへの忠誠が示され、翌年の1259年にヤクートウークでスペンキなる絶対的権力を持った支配階級を作り上げ、ヤキビック自身が初代スペンキとなることでエルブレーム王国の基礎を築いた。

1365年には、元の南北からの挟撃という形で協力関係にあった明がエルブレーム三世を王とするエルブレーム王国の存在を承認され、エルブレーム王国とスペンキの地位は国際的に認められるものとなった。しかし、1370年にエルブレーム三世がなくなるとその後継争いを巡ってエルブレーム王国が分裂することになる。

エルブレーム四方面時代と呼ばれるこの時代は、エルブレーム三世の長男ドムストートゥリン、次男バーンドゥン、三男スネフトゥの3人と、北元(元が明に土地を追い出されたときの国家)の支援を受けたモンゴル系遊牧民ザクヒラグチの4人が自分が第四代スペンキであることを主張し、その結果、ドムストートゥリンをスペンキとするカムチャッカエルブレーム、バーンドゥンをスペンキとするサハエルブレーム、スネフトゥをスペンキとするマグダエルブレーム、ザグクラヒチをスペンキとするダイムエルブレームの4ヶ国ができる。
四方面時代のそれぞれのエルブレーム王国は王国同士の争いをできる限り避け、外部から自国の領土を拡大しようとした。(当時のエルブレーム王国周辺は元朝崩壊間もなくで、小勢力が跳梁跋扈する時代であったため、拡張が容易であった。)当時の四か国が支配した地域の合計範囲を未回収のエルブレームと呼び、後のスペンキはこれらすべての回収を目論んだ。
長らく膠着の続いた四方面エルブレーム時代だったが1412年おおきな転換点を迎える。カムチャッカエルブレームで宰相をしていたナウルがクーデターを起こし、カムチャッカエルブレームのスペンキとなったのだ。彼はその後五年掛けて圧倒的な国力をつけた。カムチャツカ地域はヤキビックによるエルブレーム王国建国以前から小規模勢力が存在しており、他の地域に比べて発展していたため、この地の民の心をつかむナウルの内政政策はカムチャツカエルブレームを強国たらしめた。
1419年にはカムチャッカエルブレームがイルーツクエルブレームへと侵攻。他の二国も、イルーツクエルブレームが倒されたあと滅ぼされると考え、マガダンエルブレームと同盟をくみ、カムチャッカエルブレームを滅ぼそうとし、ヴァン連合を作り出した。それに対し、カムチャッカエルブレームは、近隣に位置する、十数の小国の連合アース連合に、ヴァン連合と戦争をさせるように仕向けた。そして、カムチャツカエルブレーム自体はヴァン連合と大規模戦闘をせずに膠着状態に変えた。
1421年に中世エルブレームにおける最大の闘いアース・ヴァン戦争が勃発。両軍の死者は12000人に及び両国は、壊滅的な状況となった。1422年一月にカムチャッカエルブレームはヴァン連合の国々へと侵攻。先の闘いで甚大な被害を受けた、彼らに抵抗する力はなく、同年6月にマグダエルブレームの中心地ラビアがカムチャツカエルブレームの手に落ちると、同国のスペンキはナウルをスペンキとして承認。つづいてサハエルブレームも同様の対応を取った。そのことを知ったダイムエルブレームの中枢人物たちは国を放棄して西へと逃げていった。
1423年にナウルは正式に二代スペンキにつき、これからもまた分裂が起きることを避けるために、次の王について『即位中の王が次の指導者を決定しない限り、原則としてその王の長男があとを継ぐ』と定めた。(エルブレーム法典)この定めにより、300年近く跡継ぎによる問題は起きなくなった。また四方面エルブレーム時代もこれを機に集結することとなった。

その後エルブレーム王国は封建制を安定させていき、貴族による領土開拓でエルブレーム王国は北へと新たな土地を増やしていった。17世紀にはいると大きな転換点がおきる。ロシア帝国によるシベリア植民の始まりだ。新たな勢力との出会いはエルブレーム王国に大きな影響を与えた。

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