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kingzeputozeta 2023年10月30日(月) 18:46:39履歴
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大ルーシ民族社会主義労働者党は、1993年にウクライナ(当時の国名)で設立されたネオ・ボリシェヴィズム(修正ボリシェヴィズム)を掲げる政党。設立直後に迎えた1994年の第2回ウクライナ最高議会選挙では十数議席の獲得にとどまったが、その後経済状況の深刻な悪化や対立政党での汚職事件などを契機に国民の支持を獲得、社会主義者、民族主義者、自由主義者を上手く取り込むことで、包括的な政党に成長した。1996年の第3回ウクライナ最高議会選挙では他の勢力を上回る170議席を獲得し政権与党となると、1998年の大統領選挙では得票率52%で初代党首イーゴリ・ウリヤーノフが当選、これにより権力を掌握した。そして2001年には憲法を改訂し「党の指導性」を明確化、また国名を「大ルーシ国」に変更、事実上の一党独裁体制を確立した。以降、2023年現在に至るまで、大ルーシ国において一党独裁体制を継続している。
大ルーシ民族社会主義労働者党では、「指導者原理」が採用されている。党内は複数の階層に分かれており、各階層は階層内で選出された指導者に従属する。このピラミッド構造の頂点に立つのが党代表であり、慣例的に党代表は国家元首たる総統を兼ねる。2023年現在、大ルーシ民族社会主義労働者党の党員数は約280万人と推定されている。同党による一党独裁体制が確立されている大ルーシ国内では、同党の党員であることは、社会的にエリートであることの証と見做されている。党員の多くは、特に学業やスポーツが優秀であると認められた青少年が加入する党の青年組織、「全ルーシ青年同盟」においての社会奉仕活動などが認められて入党した者が占めている。
大ルーシ民族社会主義労働者党では、「指導者原理」が採用されている。党内は複数の階層に分かれており、各階層は階層内で選出された指導者に従属する。このピラミッド構造の頂点に立つのが党代表であり、慣例的に党代表は国家元首たる総統を兼ねる。2023年現在、大ルーシ民族社会主義労働者党の党員数は約280万人と推定されている。同党による一党独裁体制が確立されている大ルーシ国内では、同党の党員であることは、社会的にエリートであることの証と見做されている。党員の多くは、特に学業やスポーツが優秀であると認められた青少年が加入する党の青年組織、「全ルーシ青年同盟」においての社会奉仕活動などが認められて入党した者が占めている。
1992年、当時非合法化されていた「ウクライナ共産党」、その合法部門と見做されていた「ウクライナ社会党」や「ウクライナ農民党」の中心メンバー、そしてウクライナ地域のロシア人とウクライナ人が民族的に同一であると主張した「大ルーシ民族運動」が融合して誕生した「ウクライナ社会主義労働者党」が、今日の「大ルーシ民族社会主義労働者党」の起源となっている。
創立当初の社会主義労働者党では、党員の間で、主に3点で対立が表面化していた。それは「民族問題」「経済問題」「宗教問題」であった。共産党、社会党、農民党の保守的な党員たちは、ロシア系住民の権利を重視すると共に、宗教についてはソ連時代のように一定の規制を行い、また経済については、ソ連型の計画経済を再導入することで、90年代初頭の混沌としたウクライナ経済を立て直すことを主張していた。一方、共産党、社会党、農民党の革新的な党員たち、そして、大ルーシ民族運動は、ウクライナ系住民とロシア系住民の融和を図り、宗教については規制せず、経済については「人民が主体となって行う経済」、要するに市場経済を部分的に導入するように主張していた。
この対立は、選挙戦が近づくにつれて表面化、結果、1993年末に社会主義労働者党は2つに分裂した。こうして、保守派が中心となった「ウクライナ労農共産党」と、革新派や大ルーシ民族運動系の党員が中心となった「ウクライナ民族社会主義労働者党」が誕生した。しかし翌1994年の最高議会総選挙でウクライナ民族社会主義労働者党は労農共産党に大敗。その責任を取る形で党首のミハイロ・サヴェンコが辞任し、後継には、大ルーシ民族運動の設立者で、高いカリスマ性で知られたイーゴリ・ウリヤーノフ(現在、大ルーシ国内では「Большой Брат(偉大な兄弟)」として個人崇拝されている)が就任した。ウリヤーノフは党の改革を断行、綱領を改め、政党名を「大ルーシ民族社会主義労働者党」に変更、社会主義政党、民族主義政党、自由主義政党全てと関係を持つことで、党勢の拡大に勤しんだ。
創立当初の社会主義労働者党では、党員の間で、主に3点で対立が表面化していた。それは「民族問題」「経済問題」「宗教問題」であった。共産党、社会党、農民党の保守的な党員たちは、ロシア系住民の権利を重視すると共に、宗教についてはソ連時代のように一定の規制を行い、また経済については、ソ連型の計画経済を再導入することで、90年代初頭の混沌としたウクライナ経済を立て直すことを主張していた。一方、共産党、社会党、農民党の革新的な党員たち、そして、大ルーシ民族運動は、ウクライナ系住民とロシア系住民の融和を図り、宗教については規制せず、経済については「人民が主体となって行う経済」、要するに市場経済を部分的に導入するように主張していた。
この対立は、選挙戦が近づくにつれて表面化、結果、1993年末に社会主義労働者党は2つに分裂した。こうして、保守派が中心となった「ウクライナ労農共産党」と、革新派や大ルーシ民族運動系の党員が中心となった「ウクライナ民族社会主義労働者党」が誕生した。しかし翌1994年の最高議会総選挙でウクライナ民族社会主義労働者党は労農共産党に大敗。その責任を取る形で党首のミハイロ・サヴェンコが辞任し、後継には、大ルーシ民族運動の設立者で、高いカリスマ性で知られたイーゴリ・ウリヤーノフ(現在、大ルーシ国内では「Большой Брат(偉大な兄弟)」として個人崇拝されている)が就任した。ウリヤーノフは党の改革を断行、綱領を改め、政党名を「大ルーシ民族社会主義労働者党」に変更、社会主義政党、民族主義政党、自由主義政党全てと関係を持つことで、党勢の拡大に勤しんだ。
1996年の最高議会選挙では、直前の世論調査でも、労農共産党の支持率は28%、大ルーシ民族主義労働者党の支持率は22%とされており、大ルーシ民族社会主義労働者党は、善戦こそすれど、労農共産党の議席数を上回ることはないだろうと考えられていた。しかし、投票日の直前、労農共産党と国営企業の間で行われていた大規模な汚職と選挙工作がメディアによって報じられ、これを追い風にした大ルーシ民族社会主義労働者党は、最終的に170議席を獲得し、第一党の座を手にした。
1999年の大統領選挙では、現職のレオニード・クチマ、大ルーシ民族社会主義労働者党のイーゴリ・ウリヤーノフ、労農共産党のペトロ・シモネンコの3人が主要候補として争うこととなった。最終的に、ロシア系住民が多く居住する東部、南部と、ウクライナ系住民が多く居住する中部、西部の全域に渡り広範な支持を獲得していたウリヤーノフが得票率54.8%で勝利する結果となった。これにより、大ルーシ民族社会主義労働者党は、ウクライナの国政を掌握することとなった。しかし、この時点ではまだ、最高議会には他多数の野党が存在している状況であり、一党独裁体制の確立がなされたわけではなかった。ウリヤーノフ大統領は就任演説で「汚職と腐敗の一掃」「民族の融和と強いルーシの復興」を掲げた。この直後、国営企業の解体が開始されると共に、労農共産党の汚職に関わっていた人員の一斉逮捕が行われ、これにより大ルーシ民族社会主義労働者党の数年来のライバルであった労農共産党は瓦解・消滅し、一部の党員は民族社会主義労働者党に吸収される格好となった。
1999年の大統領選挙では、現職のレオニード・クチマ、大ルーシ民族社会主義労働者党のイーゴリ・ウリヤーノフ、労農共産党のペトロ・シモネンコの3人が主要候補として争うこととなった。最終的に、ロシア系住民が多く居住する東部、南部と、ウクライナ系住民が多く居住する中部、西部の全域に渡り広範な支持を獲得していたウリヤーノフが得票率54.8%で勝利する結果となった。これにより、大ルーシ民族社会主義労働者党は、ウクライナの国政を掌握することとなった。しかし、この時点ではまだ、最高議会には他多数の野党が存在している状況であり、一党独裁体制の確立がなされたわけではなかった。ウリヤーノフ大統領は就任演説で「汚職と腐敗の一掃」「民族の融和と強いルーシの復興」を掲げた。この直後、国営企業の解体が開始されると共に、労農共産党の汚職に関わっていた人員の一斉逮捕が行われ、これにより大ルーシ民族社会主義労働者党の数年来のライバルであった労農共産党は瓦解・消滅し、一部の党員は民族社会主義労働者党に吸収される格好となった。
就任当初のウリヤーノフ政権は、「汚職対策」として、自由主義勢力の同意を得て、議員の不逮捕特権を停止するように憲法を改正する草案を提出した。大ルーシ民族社会主義労働者党の党員と、自由主義勢力の議員の合計388人が賛同したことで、改正案は国民投票にかけられ、賛成多数で正式に制定された。
ウリヤーノフ政権下で、ロシア語とウクライナ語を融合させた「ルーシ語」の創出が明言されたことを契機とし、1999年末、西部リヴォフでウクライナ民族主義者の暴動が発生、市議会が民族主義者に包囲・占拠され、また暴動により数十人の市民が死傷する事態となった。政権はこれを逆に好機と捉えた。ウクライナ法務省はキエフの行政裁判所に対し、民族主義団体と金銭関係を持っていた極右民族主義政党の非合法化を要求、これが認められ、ウクライナにあった4つの民族主義政党が解党された。この行政裁判を実施した裁判官は、ウリヤーノフ政権から非公式に圧力をかけられていたとされる。さらに民族主義政党の議員に対し、次々と暴動への関与を理由とした逮捕が行われた。
翌2000年の最高議会選挙では、労農共産党の消滅・吸収、民族主義政党の消滅、ウリヤーノフ政権下での経済状況の改善などを受け、大ルーシ民族社会主義労働者党が大勝、過半数を超えて264議席を獲得する形となった。これを受け、ウリヤーノフ政権はかねてより構想していた憲法の改正に着手した。同年末、大ルーシ民族社会主義労働者党は憲法改正案である「大ルーシ国憲法」草案を議会に提出、過半数の賛成を以てこれが考慮されることが決定された。これにより、翌年の最高議会で憲法改正草案が審議されることとなった。この憲法は、ウクライナの民主主義を著しく損なって破壊するものであったため、自由主義勢力からの猛烈な反発を浴びた。このため、特に西部を中心に、自由主義者や民族主義者による大規模なデモが発生した。暴力的なテロ行為を口実とした民族主義政党の非合法化の事例を目の当たりにしていたため、当初、自由主義勢力のデモは平和的に遂行されていた。
ところが2001年1月1日、リヴォフ市街地の高層アパートで連続爆破テロが発生し、200名以上の死傷者が出た。これを理由としてウリヤーノフ政権は、デモや爆破テロと関係があると見做された自由主義政党の議員や無所属議員を次々と逮捕した。そして逮捕された議員について最高議会では、裁判所で判決が確定するか、任期が終了するまでの間、議員としては在籍するものの、給与は支払われず、さらに全ての議決について棄権しているものとして扱われることが決定された。このような憲法の穴をついた措置により、議員定数の2/3を占めていないのにも関わらず、大ルーシ民族社会主義労働者党単独で憲法を成立させることが可能となった。
なお、この1月1日の連続爆破テロの2日前にあたる12月30日には、「不審なスーツケースが置かれている」という通報があったリヴォフ市のショッピングセンターで、地元警察が処理後に調査を行った結果、プラスチック爆薬と鋼弾が仕込まれた殺傷力の高い爆弾であったと判明した「ショッピングセンター爆破未遂事件」が発生していた。しかし、この事件については、翌年、対テロ戦専門部隊による再調査の結果「爆弾というのは地元警察の鑑定の誤りであり、砂糖が50kg入ったバッグであった」という報告書が公表され、さらに鑑定を行ったリヴォフ警察の担当官が外出中に何者かに刺殺される事件が起きた。このため、国外のシンクタンクなどからは、一連のアパート爆破事件は反対派議員を逮捕するために政権側が仕組んだ自作自演の「官製テロ」であった可能性が指摘されている。
こうした混乱の後、2001年の通常議会では、形式的な審議の後、大ルーシ民族社会主義労働者党の党員全員が新憲法に賛成票を投じ、「大ルーシ国憲法」草案が可決され、国民投票に持ち込まれることとなった。自由主義勢力や民族主義勢力の反対集会に対し、ウリヤーノフ政権は国内軍を動員して暴力的に解散させると共に、東部、南部のロシア系住民が多数居住する地区において大規模な政治集会を繰り返し開催して新憲法への支持を呼び掛けた。最終的に「大ルーシ国憲法」は、当局の発表によれば、過半数を大きく上回り、国民の84%以上の圧倒的多数の賛同を受けて可決された。しかし海外のシンクタンクの調査では、投票日直前においても新憲法に賛成を表明した人は、調査対象うち半数以下の38%に過ぎず、選挙不正が行われた可能性が極めて高いと指摘されている。
ともあれ、これにより、ウクライナは「大ルーシ国」と改名され、最高会議と裁判所の権限が著しく弱められたことで事実上同国の民主的プロセスは崩壊、憲法において大ルーシ民族社会主義労働者党は「大ルーシを領導する唯一の党であり、国内で指導的な立場を堅持する」、大統領は総統と改名された上で「ルーシ人自らがその運命を託すことを選んだ絶対的な指導者」としてそれぞれ規定された。同年、が制定され、大ルーシ民族社会主義労働者党による一党独裁体制が開始された。
ウリヤーノフ政権下で、ロシア語とウクライナ語を融合させた「ルーシ語」の創出が明言されたことを契機とし、1999年末、西部リヴォフでウクライナ民族主義者の暴動が発生、市議会が民族主義者に包囲・占拠され、また暴動により数十人の市民が死傷する事態となった。政権はこれを逆に好機と捉えた。ウクライナ法務省はキエフの行政裁判所に対し、民族主義団体と金銭関係を持っていた極右民族主義政党の非合法化を要求、これが認められ、ウクライナにあった4つの民族主義政党が解党された。この行政裁判を実施した裁判官は、ウリヤーノフ政権から非公式に圧力をかけられていたとされる。さらに民族主義政党の議員に対し、次々と暴動への関与を理由とした逮捕が行われた。
翌2000年の最高議会選挙では、労農共産党の消滅・吸収、民族主義政党の消滅、ウリヤーノフ政権下での経済状況の改善などを受け、大ルーシ民族社会主義労働者党が大勝、過半数を超えて264議席を獲得する形となった。これを受け、ウリヤーノフ政権はかねてより構想していた憲法の改正に着手した。同年末、大ルーシ民族社会主義労働者党は憲法改正案である「大ルーシ国憲法」草案を議会に提出、過半数の賛成を以てこれが考慮されることが決定された。これにより、翌年の最高議会で憲法改正草案が審議されることとなった。この憲法は、ウクライナの民主主義を著しく損なって破壊するものであったため、自由主義勢力からの猛烈な反発を浴びた。このため、特に西部を中心に、自由主義者や民族主義者による大規模なデモが発生した。暴力的なテロ行為を口実とした民族主義政党の非合法化の事例を目の当たりにしていたため、当初、自由主義勢力のデモは平和的に遂行されていた。
ところが2001年1月1日、リヴォフ市街地の高層アパートで連続爆破テロが発生し、200名以上の死傷者が出た。これを理由としてウリヤーノフ政権は、デモや爆破テロと関係があると見做された自由主義政党の議員や無所属議員を次々と逮捕した。そして逮捕された議員について最高議会では、裁判所で判決が確定するか、任期が終了するまでの間、議員としては在籍するものの、給与は支払われず、さらに全ての議決について棄権しているものとして扱われることが決定された。このような憲法の穴をついた措置により、議員定数の2/3を占めていないのにも関わらず、大ルーシ民族社会主義労働者党単独で憲法を成立させることが可能となった。
なお、この1月1日の連続爆破テロの2日前にあたる12月30日には、「不審なスーツケースが置かれている」という通報があったリヴォフ市のショッピングセンターで、地元警察が処理後に調査を行った結果、プラスチック爆薬と鋼弾が仕込まれた殺傷力の高い爆弾であったと判明した「ショッピングセンター爆破未遂事件」が発生していた。しかし、この事件については、翌年、対テロ戦専門部隊による再調査の結果「爆弾というのは地元警察の鑑定の誤りであり、砂糖が50kg入ったバッグであった」という報告書が公表され、さらに鑑定を行ったリヴォフ警察の担当官が外出中に何者かに刺殺される事件が起きた。このため、国外のシンクタンクなどからは、一連のアパート爆破事件は反対派議員を逮捕するために政権側が仕組んだ自作自演の「官製テロ」であった可能性が指摘されている。
こうした混乱の後、2001年の通常議会では、形式的な審議の後、大ルーシ民族社会主義労働者党の党員全員が新憲法に賛成票を投じ、「大ルーシ国憲法」草案が可決され、国民投票に持ち込まれることとなった。自由主義勢力や民族主義勢力の反対集会に対し、ウリヤーノフ政権は国内軍を動員して暴力的に解散させると共に、東部、南部のロシア系住民が多数居住する地区において大規模な政治集会を繰り返し開催して新憲法への支持を呼び掛けた。最終的に「大ルーシ国憲法」は、当局の発表によれば、過半数を大きく上回り、国民の84%以上の圧倒的多数の賛同を受けて可決された。しかし海外のシンクタンクの調査では、投票日直前においても新憲法に賛成を表明した人は、調査対象うち半数以下の38%に過ぎず、選挙不正が行われた可能性が極めて高いと指摘されている。
ともあれ、これにより、ウクライナは「大ルーシ国」と改名され、最高会議と裁判所の権限が著しく弱められたことで事実上同国の民主的プロセスは崩壊、憲法において大ルーシ民族社会主義労働者党は「大ルーシを領導する唯一の党であり、国内で指導的な立場を堅持する」、大統領は総統と改名された上で「ルーシ人自らがその運命を託すことを選んだ絶対的な指導者」としてそれぞれ規定された。同年、が制定され、大ルーシ民族社会主義労働者党による一党独裁体制が開始された。
大ルーシ民族社会主義労働者党の一党独裁が確立された大ルーシ国では、ウリヤーノフ政権の政治基盤を安定させるため、政敵に対する粛清が開始された。特に、自由主義勢力や民族主義勢力の牙城となっていたウクライナ西部では、苛烈な政治的弾圧が行われた。さらに、ウリヤーノフ政権を政治的に脅かしかねないと判断されれば、民族社会主義労働者党の党員であっても粛清の対象となりえた。ウリヤーノフは党について、大まかに「党中枢」と「党外郭」に区分した。党中枢は、大ルーシ民族運動時代からウリヤーノフに忠誠を誓ってきた古参の党員が中心であった。党外郭は、ウクライナ民族社会主義労働者党時代にウリヤーノフに忠誠を誓った比較的新参の党員が中心であった。政治的に重要な役職がほとんど大ルーシ民族社会主義労働者党の党中枢によって掌握され、党中枢によって行われた政治的決定が、大ルーシ評議会にて形式的に提出されて審議され追認されるという現在の大ルーシの基本的な政治構造、いわゆる「党=国家体制」は、概ねこの時期に確立した。
また、ウリヤーノフは行政改革を進めた。これは非常に大胆な改革で、今まで存在していた十数以上の省庁を再編して4つの巨大な権能を持った省に集約し、各省庁の機能はこの巨大な省の下に部局の形で移管されることとなった。こうして成立したのが、平和省、愛情省、豊富省、真理省の4大機構制である。当初は、「汚職対策のために公務員の数を削減する」ことを目的とした改革であると謳われていたが、実質的には、単に機能を集約するのみならず、党による官僚機構の支配を実現することが目的であった。4大機構制の導入と同時に、全ての官僚は、大ルーシ民族社会主義労働者党に対して忠誠を誓うことが要求された。官僚の人事は、大ルーシ民族社会主義労働者党の党中枢が決定することとなり、各省に設置された人事局は、党中枢の決定を執行する権能のみを与えられた。
さらに、党による軍の掌握も進められた。軍の掌握にあたっては、上からの掌握と、下からの掌握の両方が重視された。憲法上、大ルーシの正規軍である国家人民軍は、その名の通り国軍とされた。しかし実際のところ、国家人民軍を指揮すると規定された大ルーシ国家軍事委員会の出席者は、総統を筆頭に全員が党中枢の人員であり、このために実質的に軍の指揮系統は党に掌握された。さらに、軍内部では、各中隊に最低1人、党の専門的なイデオロギー教育を受けた政治将校が配属され、兵士の教化を担った。
また、ウリヤーノフは行政改革を進めた。これは非常に大胆な改革で、今まで存在していた十数以上の省庁を再編して4つの巨大な権能を持った省に集約し、各省庁の機能はこの巨大な省の下に部局の形で移管されることとなった。こうして成立したのが、平和省、愛情省、豊富省、真理省の4大機構制である。当初は、「汚職対策のために公務員の数を削減する」ことを目的とした改革であると謳われていたが、実質的には、単に機能を集約するのみならず、党による官僚機構の支配を実現することが目的であった。4大機構制の導入と同時に、全ての官僚は、大ルーシ民族社会主義労働者党に対して忠誠を誓うことが要求された。官僚の人事は、大ルーシ民族社会主義労働者党の党中枢が決定することとなり、各省に設置された人事局は、党中枢の決定を執行する権能のみを与えられた。
さらに、党による軍の掌握も進められた。軍の掌握にあたっては、上からの掌握と、下からの掌握の両方が重視された。憲法上、大ルーシの正規軍である国家人民軍は、その名の通り国軍とされた。しかし実際のところ、国家人民軍を指揮すると規定された大ルーシ国家軍事委員会の出席者は、総統を筆頭に全員が党中枢の人員であり、このために実質的に軍の指揮系統は党に掌握された。さらに、軍内部では、各中隊に最低1人、党の専門的なイデオロギー教育を受けた政治将校が配属され、兵士の教化を担った。

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