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本項では、中華帝国の政治史について解説する。

建国〜1930‘s

1916年、袁世凱が中華帝国の再興を宣言し、大中華帝国の建国を宣言した時、孫文派に代表される共和派の声が強かった国内の反発は大きかった。
ところによっては内線一歩手前の暴動が発生した地域もあり、袁世凱が皇帝であった時代は中華帝国の威厳を回復する時期であった。
1920年に全ての暴動を鎮圧し終えると、袁世凱は絶対君主制の下、単独で諸外国との交渉に乗り出し、中国での外国利権の返還を強く求めた。
特に日本に関しては、対華21ヵ条要求を退け、強行的な姿勢で臨んだ。
第一次世界大戦後、疲弊する列強諸国に対して利権の返還を求めた結果、香港など一部の利権を除いた欧州による利権が取り戻された。
政府はこれにより大中華帝国の威厳を取り戻そうと画策したが、外満洲、チベット、台湾など取り逃がした土地も多く存在したために、そううまくはいかなかった。
1930年代、世界で投資ブームが起こると、中華帝国はそれに便乗して投資を受け、国内の産業化を進めることでロシア、日本に対抗しようとした。
この時に整えられた産業基盤は、中華特有の豊富な労働力を使って急速に整えられ、今日においても当時の企業などが経済において力を持っている。
しかし、世界恐慌によって投資が止まり、中国は再び不景気へと突入した。
そこで、袁世凱は日本と接近し、全体主義を信奉する方針を示し、中華圏を取り戻すことで不景気を脱しようと考えた。
この動きの一環において、中華帝国はチベット、モンゴルを征服したが、台湾や外満洲の返還には至らなかった。

1940’s〜1990‘s

1940年代、袁世凱が死去すると、その息子が頭創邸として二代目の皇帝となった。
頭創帝の統治は極めて残酷なもので、多くのモンゴル人、チベット人が弾圧を受けた。
一方で、世界から多くの難民を受け入れ、グローバル化を推進したのもまた、この時期である。
特にイスラエルからは多くのユダヤ人難民が訪れ、中国に定住した。

1950年代には、戦争が終わり、再び世界に平和が戻ると、その復興支援による投資や輸出で中国経済は大きな発展を見せた。(高度経済成長)
また、この頃には中華帝国としての威厳はほぼ取り戻されており、国内は安定期に入った。
目に向上する臣民の生活水準は、多くの人々にとっては歓迎されたが、一部の好景気に乗り遅れた人々を貧困層に取り残し、結果として現代まで続く格差の原因ともなった。
また、フランス領であったベトナムで独立運動が起こると、主要人物を親中派のみで構成した越南独立戦線を結成し、反政府組織を介して武器を支援することで越南戦争を開始させた。
これにより打ち立てられた越南独立国軍を中華帝国軍が支援。中華帝国軍が義勇軍という形でベトナムに派遣された。
その結果、ベトナムは無事独立に漕ぎ着け、大越南国が建国された。
しかしその実態は支配層が中国人と親中派のみで構成された事実上中国の傀儡政権であり、1968年には「大越南国は中華帝国の冊封国である」という正式な中越共同声明が出された。
この声明の中には、「越南政府は毎年その歳入の30%を大中華帝国に献上する」と言った旨の文章が記載されており、越南人はこれに対して強く憤りを覚え、反乱を起こすが、(第二次ベトナム戦争)中国軍によって鎮圧されている。

1960年代ごろ、中華の急速な経済成長は大企業による寡占・独占生み出していった。
これにより好景気に乗り遅れる臣民の数が増えることを危惧した頭創帝は「独占禁止法」を制定。
これにより多くの工業品市場の競争が守られ、経済成長を後押しした。
しかしながらこれには第一次産業が含まれていなかったため、農業などの独占はむしろ進行し、大戦期の弾圧されていた民族を低賃金で利用して作物を安価に生産する企業が生き残った。
この少数民族弾圧問題に対して、政府は「現在はこの問題は解消された」としているが、真相は定かではない。
また、1965年にはこれらの民族が対抗して闘争を起こした、現地の警察を追放し、中国内陸部の広大な領域を一時的に支配したが、軍隊によってこれは無事に鎮圧された。
しかし現地の警察が追放されたことを重く見た政府は、準軍事組織である特別機動警察の導入に繋がった。

1970年代に入ると、通信機器の需要が加速した。
政府はこれを好機と捉え、欧米向けの小型通信機器を生産・販売することで大きな利益を得た。
この頃には現代においてもお馴染みである、「華為」などの企業が設立され、半導体産業で世間を席巻した。
また、1979年には大都から広州、拉薩を結ぶ高速鉄道が全面開通した。
以下停車駅
大都→上海→南京→広州→雲南楓→拉薩

1980年になると、インターネット産業がその頭角を現した。
中華帝国軍はインターネットの普及を目的とした世界初のサイバー部隊「千里眼隊」を設立する。
これは現在の千里眼隊の全身組織であり、現在とは目的が異なっている。(現在の千里眼隊はサイバー攻撃やセキュリティーがメイン)
これにより国家主体でのインターネット敷設が中国の沿岸部に広がった。

1990年代には、インターネット産業がさらに加速。事前にインターネットの敷設に先手を打っていた中華帝国はインターネット競争において他を突き放したスタートを見せた。
また、この頃から「二つの中国」問題が問題視されるようになっていった。
台湾を監視するため、海警局を設立し、海軍や海警局の中国籍武装船が金門海峡を激しく行き来するようになったのはこの辺りである。

2000’s〜現代

1998年に頭創帝が死去すると、その息子の洪憲帝が即位した。
また、洪憲帝は自由主義者であり、父が行ってきた絶対主義的国家体制の改革を即位時に宣言した。

2000年代には、ドローンの有用性の洪憲帝は目をつけ、軍事、民事問わずドローンの開発に勤しみようになった。
通信機器の小型化も進み、ついにはタッチパネルを搭載した、電話以外にもメール、ゲーム、辞書引き、音楽鑑賞、動画鑑賞などさまざまな機能を備えたものまで登場する。
台湾上空を飛行していた軍用ドローンが台湾軍により撃墜された事件が2007年に起こるなど、事件にも近未来化が進んでいることが浮き彫りになった。

2010年代、2020年代には周囲の国との関係改善が課題となった。
それまで周囲とは少し孤立気味であった中国は、積極的に他国との外交を行うようになり、太平洋連盟やアジア連合の設立、国際連合やOPEC、環太平洋サミットや地中海サミット、環インド洋サミットへの参加など、国際的な地位を高めるべく積極的な国際組織への参加も行っている。

また、2023年には紫禁城前、天安門広場に10万人規模のデモ隊が集結し、絶対君主制の廃止と憲法制定、国民の政治参加を求めた。
洪憲帝は護衛に反対を押し切って民衆の前に立ち、「君たちの要求を全て飲む。それが皇帝たる朕の務めであるのだから」とし、憲法制定と選挙の実施、議会の設置が約束された。

その後間も無くして、中華帝国憲法が制定され、それに基づき、人気が5年の下院、任期が10年の上院、そしてそれらから選出された王丹首相と王政権が成り立った。
王丹は、天安門事件の指導者で、第一回首相選挙に出馬して勝利を収め、現在の中国宰相を務めている

王丹は天安門事件を指導した自由主義者であり、学生時代から度々民主化を唱えている。
特に天安門事件では積極的に参加者を募り、自由主義者の間でも支持が厚かったため、選挙に勝利したのではないかと考えられている。

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